おとといのつづきの想い出めもー。

ほいこれ一昨日の想い出めも。
http://d.hatena.ne.jp/firestorm/20060613/1150208107
長文電波だから注意だぜ。知らない人置いてけぼりだぜ。
しかもヲタらしく熱く語っててキモいぜ。

<つづき>
…その丸っこくて大きい、「スーパーファミコン」と呼ばれていた灰色の箱が家に来る前、兄貴二人と私と3人でお金を出し合って買おうかという話になったはずだが、気が付けば私の雀の涙よりもっと少ないお小遣いは手を付けられる事なく(そもそも貯金すらしていなかった年齢のはずだ。何歳だ)その箱は家に届いた。
この灰色の箱が私の運命を大きく変えた…いや、大きくねじ曲げた、どころがむしろ大きくひん曲げて手の付けられない状態にした。本当にありがとう。
兄貴の買っていたコロコロのおかげで漢字が読めるようになった(これはマジだ。マンガ文化にこれほど感謝した事はないしこれからも無いだろう)私は、漢字交じりで「私達のように」画面上でやりとりし合う登場人物達の一挙一動に注目し、そしてじっくりと彼らの冒険を脳内スケッチブックに下手くそに模写し始めた。
画面上でちょこまか動きデフォルメされた感情表現をする「二等身の兄」(当時、ターゲットに想定された多数の小中学生がそうするであろうのと予測された通りに、兄は「主人公君」に自分の名前を付けた)は、やはり今までのように私に様々な物語――醜悪な魔物を切り捨て焼き尽くし叩きのめしながら、世界中を飛び回る――を見せてくれた。ただ、ここで私は全く予測していなかったものを目にする。
「二等身の兄」は(リアル世界の存在であるところの)兄ではない、というのは上記に挙げたとおり、画面上の兄がコントローラを握っている兄の意向には関係なく好き勝手に「物語上の役割を演じていた」ゆえに了解済みの事であったが、ゲームハードの技術力の向上は、その「物語」に過剰で余剰なまでのパワーを注ぎ込むようになっていた。
過剰で余剰といっても、ただ単に、たかが16×16個程度のドット絵2〜3つ程のパターンを高速で切り替わらせるという、今思うと「むっちゃ頑張った」技術だったが、まあとにかくそれで充分だった。それ以外には必要なかった。
必要なかったのだ。
さて本題に入ろう。
<主人公>の「二等身の兄」に寄り添う、『”ピンクの髪”で、”おしとやか”で、”可憐”で”ひ弱”だが”意志の強い””お姫様”の』<ヒロイン>を見て、当時7、8歳ほどの私は「ああ、また『普通のヒロイン』か」と思った。脚色ではなくマジだ。本気と書いてマジで読ませるほどマジだ。
7、8歳の小学校低学年女子が『普通のヒロイン』という烙印を押してしまう程に、世の中には『普通のヒロイン』が溢れていたと当時の私は感じていたし、世の中の物語を作る人々は『普通のヒロイン』しかいない物語しか作れないと本気で思っていた。まあ間違いだったのだが。全く間違いだったのだが。
さて本題のまた本題に入ろう。
ファンタジー世界の常連であると見なされている海賊(最近は知らん)に捕らえられ、その後釈放され、そしてなんやかんやあった後に「勇者様ご一行」的ポジションと役割を与えられた「兄」は、紆余曲折の後仲間達と漂流し、アンデッドの巣窟と化した船の残骸へと流れ着いた。
不気味なBGMが不安な旅を演出する中、「兄」とご一行は船の中で一泊する事になった。

事件はその時起こった。画面の中で?、あるいは、私の中で?
いいや、両方だった。紛れもなくそれは大事件だった。
むしろ画面の中で何が起ころうとどうでもよくなった。私の中では大事件だった。
仲間の一人である海賊――始め、「彼」は「兄」ご一行を捕らえヒロインを売り払おうとまでしたのだが、「気紛れ」で一行を釈放しあまつさえ仲間に加わり、そして気が付いたら「勇者」の一人にされていたのだ――が、服を乾かすのを拒否したのだ。
紛れもなく大事件だった。少なくとも今までの「劇場」では演じられる事のない種類の「まったく無駄」なシナリオだった。どう見ても『普通のヒロイン』が出てくるような『普通の物語』には不要な演出だ。いったい何のために?
「兄」ともう一人、耄碌しかけたとぼけた記憶喪失ジジイが、「彼」の服を脱が…せ?…



うわあああああああああっああああああ!!!!!




ごめんちょっといろいろ壊れた。
説明が面倒くさいので省くと、まあ要するに「彼」は「彼女」と呼ぶべきであり、つまり女性、『ヒロイン』だったのだ。
海賊の親玉でありどう見ても男(いや、どう見てももはや今は女にしか見えない)であり、そして本当は『ヒロイン』。
これ以上に『普通でないヒロイン』などいなかった。いやしなかったし今後もいないだろう。
人生の黎明期(ルビ:ガキのころ)にこんなハンマーの一撃を食らった私は、どうやらあの時に頭のねじを数本致命的に破損してしまったらしい。
その後実は『普通のヒロイン』であるお姫様、レナの姉であることがわりとご都合主義的に発覚してしまい、良い意味で『普通でない』属性がますます強まってしまった彼女、ファリス・シャーウィズ。
明らかに着慣れていない王女としてのドレスをさも着づらそうに着せられ、そしてエンディングでそれを脱ぎ捨て自分の部屋の窓から抜け出す。
勇気は心に炎をともらせたかもしれないが、彼女は私の心を三億℃ぐらいで焼き尽くして去っていったのだ。
もはややる気のない「萌えぇ〜」等というレベルでも、ほんの少しだけ頑張ったねーエライエライ的な野太い「燃え!」でもない。心の可燃物の全てを焼き尽くしたのだ。炭素すらもう残っていないのだ。


<つづきのつづき>

その後、私の心を焼き尽くした「彼女」と「彼女とその他の物語」を収めた箱「ファイナルファンタジー5」の後に、順番を逆にして家に来た4作目は「へえ、5と戦闘曲違うんだ」以上の感動はもたらさなかったし、さして脳内でいじられることもなくまた家から消えたのでここでは語る事はない。
やや問題になるのが「ええっクリスタル出ないの!?」と驚かせた、シリーズ最高傑作との呼び声も高い6作目である。
ぶっちゃけファリスが存在する世界の物語を収めたFF5というゲームさえあれば幸せになれたし、「中性的キャラ」分を補給するにあたっては「ライブ・ア・ライブ」に遠く及ばなかった6作目だが、「物語」の舞台としては非常に申し分ないものを提供した。
その頃、既に発売から2年が経過していたにもかかわらず、焼き尽くされた心にほんの少し戻った緑はまだ萌えと燃えの焔にくすぶっていた。むろんくすぶらせていたのは彼女、ファリスである。
「劇場」で彼女が活躍する機会は少なくなっていた――兄たちは、新しい戦いを始め、新しい物語を上演させる事に夢中になっていた――が、私の脳内では彼女を超える主人公はいなかったし、彼女を超えるヒロインもまたいなかった。
私は彼女と自分を同一視していたのか?とんでもない!
彼女が活躍しているときには、「私」なんてどこにもいなかったのだ。
「私」と彼女は同時に存在するなどありえなかった。「私」などただの器だ。「私」が彼女が活躍するための器なのだ。
「物語」の登場人物が感情移入される存在である、と500歩程譲ったとしても、リアル世界の「人間」の器になる存在であるなどと、彼女に対してそのような畏れ多い決めつけが出来るものか!一緒にしないでくれ。一緒にしないでくれ!
私のセカイでは(そう、これってセカイ系よねある意味。私と彼女だけの世界。超狭いセカイ)、彼女が活躍するときは私など存在しなかった。「劇場」のステージに客を上がり込ませて茶番を演じるような安っぽい役者がどこにいる?
もはやその頃は「劇場」で「上演」される必要は無かったのだ。
私は、脳内スケッチブックにナルシェを、ベクタを、竜の首コロシアムを、がれきの塔をヘタクソに模写し、劣化コピーし、そして他の世界の欠片や汎用パーツまでやたらめったらにコピー&ペーストした、「FF6」によく似た脳内箱庭、<キメラ世界>を作り出した。
サイコロもキャラクターシートもルールブックも必要ない非電源ゲーム、すなわち「妄想」。
<キメラ世界>は彼女の新しい活躍の場になった。
今ならばクロスオーバーなどというやや安っぽいきらいのある響きの、「おめーら横文字にすれば何でもカッコイイと勘違いするんじゃねぇぞバーロー」と吐き捨てたくなるようなタチの悪い遊びだが、当時小学校中学年の私のメインの遊びはもっぱらこれだった。
「私」という器の脳味噌とエネルギーさえあればいつでもどこでも24時間、好きなときに好きなだけ好きな物語を上演してくれる素敵な「劇場」。
誰もこの遊びを教えてくれなかったが、私は確かに「妄想」していたのだ。






…まだまだ続くよ?←ひぎぃ
時間がなかったので長文になりました(パクリ)。

自分用おぼえがき>最近ブクマした記事を読むとお前は幸せになれる。ちゃんと読めば、の話だが。